『完成と未完成』
- ユウキ サクタ

- 10月30日
- 読了時間: 3分
「作品の完成はどうやって決めているのか?」
展覧会へ足を運んでくださったお客さんから、こうした類の質問を受けることが多い。
これまでそれなりの作品数を仕上げてきてなんとなく掴んだ感覚はあるが、それが万事正しいのか未だ自分でも自信がない。でもせっかくなので書き留めておこうと思う。
描き始める時、まっさらな灰色のキャンバス面がやけに綺麗に見えて、筆を走らせるのに躊躇いを感じるが、一色置いたらそこからは勢いとリズムと感覚の嵐。飄々と変わりゆく画面上を絵具と筆致と地の色のやりとりを経て、『キャンバス』から絵画作品へと昇華させていく。
そしてある一点の時、画面から危険信号が出るのだ。
「これ以上描くと崩れるぞ。」という切羽詰まった声。実際に声が発せられてるわけでも、幻聴が響いているわけでもない。ただそう言った比喩で表すのに相応しい感覚が完成間際の作品から感じられる。それが察知できたらスパッと筆を下ろし、新たな作品へと切り替える。ここ数年の制作スタイルの流れだ。
……ただし、この感覚も当てにならないもので毎回“声”が聞こえるわけではなくて、だいたい2~3作品に一つの確率。その他は絵具との戯れに埋もれ、坩堝にはまって、想定したものより重たい印象となってしまう。(これはこれで一皮剥ける時もあるのだが。)別のパターンでは声の感じるままに手を止めて、でもしばらくして不完全な箇所を見つけて加筆する、なんてこともしょっちゅうある。
……この声に従って本当に筆の行方を決めていいものだろうか?ただいま脳内で右往左往中の思考である。
そもそも絵画に“完成”はあるのか?――学生の頃から疑問に思っていた事柄の一つだが、明確な答えは出せないでいる。美術史で有名な絵画でも、画面の一部が塗り潰されたり、作家の意図とは不本意に加筆されたりして現代に伝わったものも数多くある。でも手を加えた者から見たらその作品は未完成に映り、完成を目指し義務感から加筆したに過ぎなかったのかもしれない。(もちろん時代の流れに揉まれた可能性の方が高いけど。)
完成された作品の完璧な美学と正反対だが、未完成のものにも魅力がある。人は不完全なものに惹かれる部分もある。さっと描いたドローイングやクロッキーの線画、落書きと称される線の勢いに目が留まるのは、完璧とは正反対の未完成な余白を残してくれてるからではないか。
と言うことは“未完成”こそ、作品を成立させる重要な要素なのか?いやいや、完成した絵画の強さを侮るなかれ。でもどれだけ描き込んだ絵画でも見る人によっては未完成に感じる部分もある?でもそこが魅力になってるのでは?いや、足を引っ張ってたりする?
……思考の坩堝にはまった時は、珈琲飲んでひと息入れましょう。





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