人が往来する道をよくよく見てみると、その場にそぐわないものが転がっている時がある。誰かの腕から滑り落ち、そのまま気づかれずに置いてけぼりにされてしまったのかもしれない。
ただし見つけた瞬間は、
「なんだこりゃ?」
と、頭の上にクエスチョンマークが無数に出てくる。用事で急いでいる時ですら「なんだこりゃ?」と急ブレーキをかけて立ち止まり、何故此処にこんなものがあるのか経緯を考え込んでしまう。
不法投棄にしては昼間から目立ち過ぎてるし、捨てたにしても見た目が綺麗。となると考えられるのは、荷物をたくさん持ち過ぎて落としてしまったことに気づかず、スタスタと去ってしまったと考えるのが妥当かな?
おっちょこちょいな才能を持つ人は至る所にいる。三条付近大通りの歩道の片隅では熟れたみかん、六甲山上から麓まで下る山道に未開封の天日塩、つい先日は近所の道路の端にミニサイズのフライパンが落ちていた。
なんでこんな大きな物を落として気づかないんだろう?と疑問を抱いたが、私は人のことを言えない立場だ。
スマホでこの謎状況を撮影しながら(へんてこりんなものは思わず撮影したくなるものです。)去年の今頃、買ったばかりのシリコン製湯たんぽをバイク運転中に落としたことを思い出した。
物が自分の身から外れる瞬間は意外と認識しづらい。何の前触れも無く、力むことなくするりと抜け落ちてゆく。真冬にぎゅっと締め付けるマフラーではなく、春や初夏あたりに緩く巻いているスカーフのように圧迫感や存在感を消している気がする。’狐につままれる’感覚は物を無くした時にこそ強く実感する。できれば感じたくないものだが……。
では此処で、自分が今まで道端に落っことしたものを列挙してみよう。
ポケットティッシュ、ハンカチ、落書き帳、おつかいで買った食材が入った袋、公園で摘んだ花の束、部活のウインドブレーカー、自転車の鍵、手袋片っぽ複数回、家の鍵、買ったばかりのマックのジュース、折り畳み傘、マナカカード、ICOCAカード、イヤリング片っぽ、そして湯たんぽ……。
——いやいや落とし過ぎだ。親切な人が交番に届けてくれて無事に回収したものもあるが、この短所が幼少期からあまり直っていないところは大問題。道端で変な落とし物を見つけて、落とし主に妙な親近感を抱くのは良いが、一刻も早く改善すべき点である。
2022年、何も無くさないように。
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