記憶は絶えず動いている。保育園、小学校、中学校、高校、大学、大学院と、いつでも誰かと、何かとの出会いがあった。大きくも小さくも色とりどりな思い出は、人物像やその時の風景とともに記憶の抽斗に仕舞われている。
ただし、その抽斗は整理整頓されていない。思い出のパーツはバラバラになって時に不思議な、歪なものに変容しながら、懐かしさや切なさを呼び起こしてくる。
小学校の頃の友人と大学時代の友人が、原っぱで仲良くピクニックしている光景。現実で二人は出会っていない。
祖父母宅でずっと昔に飼っていた柴犬が、大学のキャンパス内を駆け回っている光景。この柴犬は小学校入学前に天国へ旅立っている。
保育園の園長先生が中学校の部活の試合を応援してくれている光景。中学生当時、既に先生は定年を迎えていて話をする機会なんて無かった。
大学院でのゼミの最中に、違和感なく高校のクラスメイトが溶け込んでいる光景。彼女は京都在住ではない。
辻褄や時間軸が全く合わない要素が、記憶の抽斗という特殊な容れ物では自由気ままにつながり合って、別世界の思い出を作っている。睡眠中に見る夢ではさらにリアリティが強くなる。心の何処かで「これは虚像だ。」と分かっていても、本当の思い出としてインプットしてしまいそうになる。
上手く説明するのが難しいのだが、記憶に刻まれた人や物事に対して、無意識のうちに距離感を設定している。その距離感が近い事柄の要素が抽斗の中で繋がりやすい。例えば、幼少期の友人と大人になってから知り合った友人が同じ距離感で記憶に存在していて、彼らは当たり前に会話を繰り広げている。ちなみにこの時、幼少期の友人は保育園スモックを着た小さな姿で登場する。現実世界では当然、私と同じように成長しているのだが……。
既に繋がりが断ち切れて、再会できない人々もいる。彼らが私個人の記憶の中で、架空の思い出パーツになっている事を知る方法はない。幼い頃親しかった子や人々は、今どうしているだろう。思春期の多感な時期を、一緒に過ごした人々は今何をしているだろう。
今後も記憶の抽斗だけで会える人が増えていく。本当の思い出と、無意識に作られた思い出。どちらも’今の私’には貴重なものになっている。
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