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  • 執筆者の写真ユウキ サクタ

『自我の素』

三つ子の魂百まで——。幼少期の性格は年をとっても変わらないという意味の諺。人間はおよそ1~2歳の頃に自我を認知し、3歳には確立させる。

自我、どちらも自分を指す漢字が充てがわれる言葉だ。当然自分自身のもの。でも全てが本当に一人だけで育んだものだろうか。

生まれ持った才能、気質。誰もが羨む何かを持っていたとする。それが早くに表面化する人もいれば、本人も気づかないまま一生を終えることもある。ともすれば、ほんの僅かな片鱗しか見えずとも、周りの環境や人からの影響で大きく構築されていく側面もある。こうして見ると「環境」がどれほど一人の人間を左右している事だろうか。

一個体に宿る自我の素は実はとても小さくて、その個体が生まれ落ちた場所、時代、関係性の肉付けが必須になる。少しでもこれらの要素が違っていたら、たとえ自我の素が同じだとしても何かしらの相違が生じるだろう。今の自分とは全く違う人物が街を歩き回っている可能性もあった。性格は身だしなみや趣味嗜好にも表れるだろうから、服装や体格、背格好も違っているかもしれない。

自分というものを根底から覆されそうになる。今此処にいる‘私’はどのように形作られたのだろうか。産声をあげてからの3年間の時間に、ちょっとでも違った要素が紛れ込んでいたら、あるいは何かが欠けていたら今の「自我」は無かった。逆に捉えれば確立されていたかもしれない、より良い「自我」があったかもしれない、という無いものねだりのような想像もできてしまう。

おそらくこれも一種のパラレルワールド的想像だろう。新生児から幼児時代の記憶なんてもはやこれっぽっちも残っていないが、あの時こうだったら、もしこうしていたら、という考えを膨らませるには濃密な時間だった。

「三つ子の魂」に必要な材料は自分の中だけに限定されておらず、自分を取り巻く全てのものが役割を担っている。




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