『私の友達定義』
- ユウキ サクタ
- 2023年4月6日
- 読了時間: 2分
乳児期、幼児期、児童期、思春期、青年期、そして社会人とそれぞれの時間の中で、沢山の人と出会ってきた。その中で『友達』は、どの時期においても私個人の人格・思想に大きな影響を与える人でありながら、赤の他人との区別が曖昧で難しい、ある意味で正体不明の存在だ。
一緒に何処かへお出かけする、何か美味しいものを共有する、毎日のように顔を合わせる、日々の悩みや迷いごとを相談し合う、とにかくいつも行動を共にすることが典型的な友達像だろうか?
残念ながら、誰かと長くこうした時間を過ごした記憶があまりない。
今は地元から離れて暮らしていて、昔からの知り合いが周りにいない事も一理あるが、そもそも幼い頃から友達と遊びに行く事が少なかったように思う。(社交的な子はほぼ毎日、学校終わりに誰かと遊ぶ約束をしてお出かけしていた。)
一番最近の友達との個人的交流と言えば、去年の秋、久々に連絡した名古屋芸術大学時代の同期のアトリエにお邪魔したことだろうか?想像以上に友達とお出かけしていなかった事にちょっと驚いた。
でも私は「友達がいっぱいだ」と思っている。
私の友達の定義は「相手との楽しい思い出がある」こと。ずっと昔に出会った人の中には、この先二度と会う事のない人もいて、その名前すらも朧げになっている。
小学校からの貴重な友人の一人でもあるあの人は、SNSから伝わる近況報告で私と同じように年齢を重ねているはずなのに、記憶に深く刻まれているのはショートヘアで中学校の制服を着た素朴な姿。高校時代のクラスメイト達は、登山を本格的にライフワークにしているあの人、自分のお店を開いたあの人、結婚して家庭を築いたあの人など、それぞれの人生を歩いていた。専門学科の美術科というちょっと特殊なクラスだったが、そこから皆全く違う生き方をしていて「専門学科は進路が限定されてしまう。」という謎の忠告は杞憂だったな、としみじみ思った。現在進行形で交流が深いあの人やあの人は精力的に作家活動の情報が流れてきて、良い刺激を受けている。
そして友達の中にはSNSを持たない人もいる。あの人やあの人はいまどうしているだろう。旅先でたった一度だけ出会ったあの人は、なんて名前だっただろう。今の様子が分からない人は、出会った当時の姿のまま。懐かしくも寂しい印象を纏って、ふとした瞬間に記憶の抽斗から見つかる。その思い出に浸る時、自分自身も当時の背格好、服装になって追体験する。
今自分が生きている地点から、どんどん離れていくその思い出を彩っている人々。
彼ら皆、私の『友達』である。
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