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  • 執筆者の写真ユウキ サクタ

『文学と絵画』

東京流通センターにて、11月11日限定で開催していた文学フリマへお出かけした。モノレールの駅から降りてすぐ目の前に道標の看板が設置され、其処で一旦立ち止まって写真を撮る人、直角に方向転換し目的地へと吸い込まれていく人と二極に分かれた流れができていた。曇天の土曜日のお昼過ぎ、運河に三方を囲まれた土地特有の冷たい風が吹き込んでいたが、本の数以上に押し寄せたであろう人々の存在感で掻き消されていた。留まった空気は熱を帯び、体感温度は2〜3℃上昇していた。

3つのホールからなる会場は「文学」の字面の通り、物語を織りなす膨大な言葉が大量の冊子となって各テーブルに整理整頓され並んでいる。小説だけでなく、エッセイ、論文、絵本、ルポルタージュ、関連グッズでポストカードやアクセサリーも販売していた。

弟からもらった情報を頼りに書物と人に溢れたブースを掻き分け、何とか頼まれた本を探し出し購入する事ができた。せっかくの機会、おつかい終了後に文学フリマを散策してみる。怪奇、歴史、ライトノベル、純文学、百合、BL。ひとくちに‘小説’と言っても、さらに細分化され括られている。何処のブースも売り子と顧客の潑剌としたやり取りがあり、いかにもフリーマーケットらしい。

ただ、この活気に満ちた空間で私が抱いたのは、初めて旅した外国のとある街中を歩いている時と同じ感覚、「孤独感」だった。‘ひとり’でもなく‘ぼっち’でもなく「こどく」という音の響きが相応しい。立ち読み中も、作家さんから本の紹介を聞いている時も纏わりついてきた。

文学と絵画には一定の距離がある。縮まる事はないかもしれない。

描く事と書く事。何かのきっかけで自分の表現を追求するのは同じだとしても、その媒体独特の人体や周囲への影響の仕方は異なっている。私個人で例えれば、アートを鑑賞し終えた時に痛むのは大抵眼球の裏側だが、本を1冊読了した時に痛むのは脳の奥底だ。アートは見るもので文字は読むもの、と無意識に区分けされた結果だろうか。今日は特に鈍い痛みを引き起こしていた。

初めて目の当たりにした界隈の重力に眩暈がして、1時間程で会場を後にした。


P.S.

夜、こうしてエッセイを綴りながら、あれだけの人々が物理的な「本」を求めている事に少しほっとした。紙媒体の本が、デジタルに完全に淘汰される未来はそう簡単にやってこないだろう。



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