スタジオハイデンバンの向かい側の道沿いに、更地なのか誰かの所有地なのか不明な鬱蒼と雑草の茂っている土地がある。その土地のちょうど真ん中あたりには、もこもこと木が生えていて幹が全く見えないくらい、通常よりも大きめな葉っぱが無造作に覆いかぶさっている。この場所だけぽっかりと、時間の流れから取り残されたような印象だ。
その形態から、なんとなくゴーレムを連想した。
ゴーレムは元々、ユダヤ教に伝わる意思を持たない泥人形。ヘブライ語で『胎児』を意味する。創作者の命令に忠実で、一度誕生したら止まることなく暴走し巨大化していく。おでこに記された呪文を消し去ることで命が終わる。大まかな特徴はこんな感じだ。泥が集まってできたこの怪物、映画やゲームの世界でも悪役として登場することが多い。意思を持たない操り人形の扱いなのに、傲慢の象徴にされていることもある。
なんか違和感だ。
意思を持たないはずの泥人形を、『胎児』と呼ぶことに心のアンテナが反応した。(先月の大阪でのUNKNOWN ASIA アートフェアにて、胎児をキーワードに展示空間を構成したもので……。)
赤子は、もとい胎児は、自らの意思を本当に持っていないのだろうか?目を開ける、手足を動かす、耳を澄ます、これらは子宮の中で胎児が実践しているアクション。近年の胎児エコー写真は、3D・4D機能のものもあり、表情やあくびの様子までばっちり分かるらしい。映し出された画像はどう見ても、一個人の人間が限られた次元の空間でたった一人、踏ん張って生きているように感じられた。(何かのドキュメンタリー番組で見た限りだが。)
胎内という此処からすごく身近で、同時にとても遠い特殊な空間でのみ通用する哲学とか、通念意識とかがあるのではないか?胎児達は皆その常識のもと暮らしていて、見たり聞いたり感じたりしているのかもしれない。でも外の世界、私達と同じ世界に飛び込んだ瞬間に、自身にとって当たり前だった周囲の風景と常識が一変する。同時に自分の意識さえも新しい世界に馴染むよう分解され、再構築されていく。羽衣を身に纏って、地上の記憶を置き去りにするかぐや姫のように。
だから此処で暮らす大人の私達は、胎児だった頃の記憶がないのではないか?
ゴーレムの木も、アトリエ周辺の風景として見慣れていたはずだが、改めて変な場所だなと認識した。
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