カズオ・イシグロさんの小説「忘れられた巨人」には、‘お姫様’が登場する。このお姫様は、華やかなドレスも高価な宝石も持っていない。村に迷い込んだ旅人を丁寧にもてなしたり、かと思えば持ち前の勝ち気な性格で蝋燭の灯りを求め村人と少々揉めたり、自ら旅の道先を歩んでいったり、かなりお転婆な印象。
物語の中で、お姫様自身もアクセルとともに旅をする。舞台は5~6世紀頃のブリテン島。騎士道物語でもお馴染みのアーサー王が世を去った後の時間軸で、物語は進行する。ブリトン人とサクソン人、2つの民族が暮らすブリテン島の地面に染み付く忘れ去られた記憶、人々から記憶を掠めとっている竜の息、竜退治の使命感に燃える年老いた亡きアーサー王腹心の騎士、竜から引っ掻き傷を負わされたサクソン人の少年。様々な出会いや困難を経て、アクセルとお姫様は息子が暮らす村を目指している。
イシグロ作品の中でも、竜や妖精のような謎めいた生き物の描写からファンタジーのような第一印象を受けるが、何度も読んでいると細やかな情景、畳みかける登場人物達の台詞、過去・現在・未来の出来事に対する各々の視点や捉え方がリアリティに富んでいて、この作家独特のイズムがふんだんに盛り込まれている。民族間の複雑な歴史背景や、未来へ続く負の連鎖などは、今にも通じる現実的問題として世界共通の試練。その一見堅苦しいテーマに寄り添いながらも、一途に互いを労わりながら、各自の持ち味を活かし旅を続ける老夫婦が主人公だ。
アクセルは妻のベアトリスを呼ぶ時、必ず’お姫様’と読んでいる。夫婦としてどのくらいの時間を過ごしてきたのか、具体的な年数描写はないのだが、物語の端々から、決して‘幸せの要素’だけで歩んできた訳ではないことがぼんやり察せられた。一人息子が物語中の‘今’において、彼らと一緒に暮らしていない事からもなんとなく想像を膨らませていた。
(個人的な趣味で、仲睦まじい老夫婦を影ながら観察するのが癒し。‘老夫婦’なのがポイントです。)
終盤での夫婦の選択は正しかったのか、はたまた物語としてはハッピーエンドなのか。このお話の後の世界では、どんな出来事が待ち構えているだろう?
再読するたびに、自分なりの答えが変わってくるのもまた一興だ。
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