季節を使った隠喩表現に、アダルトな意味合いが込められる。身体で性的快楽のサービスを提供し、対価として金品を受け取る事を指す「売春」が、古代から現在まで連綿と続く概念なのは周知の事実。一般的に娼婦と呼ばれるが、日本史や世界史を紐解くと、白拍子、遊女、クルチザン……など様々な呼び名があるらしい。そして彼女達の働きぶりは『春を売る』または『春を鬻ぐ』とも表現された。
春といえば、気温が暖かくなり草花も華やかに彩り、動物が冬眠から目覚め活動的になる季節だ。(個人的には誕生日もあるので特別な印象も抱いている。)
そんな季節を売り歩く——春の精霊がバスケットいっぱいに色とりどりの花を敷きつめてふんわり広がる衣を翻しながら、柔らかな陽の光を浴びて緑豊かな草原を軽やかに巡っている牧歌的な風景が浮かんでくるだろうか?残念ながら、私は無意識に思い浮かべることができなくなった。『春を売る』からこの情景を想像する大人はまずいないでしょう……。淫らな意味合いを全く認識していなかった純粋無垢な時間は、もはや忘却の彼方である。
此処で言われる‘春’には季節の他、若さ、男女の愛欲、情欲の意味合いが含まれている。生き物の三大欲求の一つである性欲を‘春’という言葉が担っているわけだ。人間に限らず犬、猫、兎なども発情期が春にやってくる。(動物によっては秋~冬に繁殖期を迎え、春~夏に子育てという例も多い。)このように三大欲求として生き物に必要な本能であるはずなのに、何故性欲だけちょっと憚れるような雰囲気が社会全体にあるのか。『春を売る』という隠喩のベールに纏わせてまで奥へ押し込んでいる。ともすればこうした売春の職業は今も健在であるし、どの宗教でも大抵禁欲を説いているが、歴史を振り返ってみると何処の世界でも権力闘争と呼応するように性的なスキャンダルには事欠かない。文明の発展に伴い理性が本能を侵食しているように見えても、本能からのしっぺ返しは頻繁に起こっていてイタチごっこのよう。理性と本能の終わりないチャンバラ対決の経過として、『春を売る』表現が確立されたのかもしれない。
夏・秋・冬を売る表現は見当たらない。季節以外の意味も定着させられた‘春’にとっては、とんだとばっちりかも?
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