国語のテストで必ずと言って良いほど出てくる問題で、筆者や登場人物の気持ちを記述するものがあったが、こうした問いに白黒はっきりした答えが用意されていたことに疑問を禁じ得なかった。
文章を綴るとき、本当にその気持ち一つだけでつらつらと言葉を並べられるものだろうか。
「嬉しい」感情の中に、不安や切なさが混ざって悲しみの感情が芽生えているかもしれないし、「怒り」の中に恐れや恐怖の弱さが紛れ込んでいる事もある。喜怒哀楽それぞれを詳しく言語化していけばいくほど、発信源(筆者や登場人物の感情)と読者で解釈に違いが出てくる。当然、読者側の中にも言葉の受け取り方に相違があり、同じ言葉から真逆の感情を想像することだってあり得るわけだ。
これが読書の大きな魅力だと思う。単純に言えば文字の羅列を目で追っていくだけの作業だが、誰かがポンっと投げたその材料を自分の思うがままに感情や状況の着色をし疑似体験していく。本来文字を読むことは、自分主体で自由であって良いものだ。
かつての「国語の授業」と「国語のテスト」を振り返ってみると、そんな自由さは皆無だった。『羅生門』で老婆を追い剥ぎした男の心情を記述する問題があったのを覚えているが、さてあの時どんな答えを記したっけ?答案用紙に大きくバツが付けられていたことだけ強烈に印象に残っている。少なからずショックを受けた思い出だ。
『わたしを束ねないで』の詩、群れの中で育まれた文化を次世代へ伝えるチンパンジーの習性に関する論述文など、国語授業で触れた文献は多岐に渡り、其処から読書への興味が引き出された一面もある。幼少期からあまり自分の気持ちや意見を積極的に発信する方ではなく、内側に秘めていろんな解釈を展開して空想に浸るのが趣味だった。国語の教科書からでもこの趣味を満喫し、想像力や語彙を存分に蓄えられた。今、何かしら自分の重要な抽斗の一つになっていると感じる。
ただ、「テスト」の枠組みで測られる要素にこれらは含まれていなかった。テストの中の答えはあくまで一つだけで、それ以外は不正解という構造が基本だ。今よりも小さな世界に住んでいたあの頃は、大きなバツ印と丸印で自分の持ち味を否定されるか肯定されるか、一喜一憂していたのだろう。既に笑い話として振り返られる思い出だが、もしもっと自由な解釈に丸印が沢山付けられていたら……。今の国語教育がどうなっているかちょっと気になった。
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