アコースティックギターをアトリエに持ち込んでいる。
細切れに練習するようになってそれなりに経過するのだが、あいにくの上達具合でとても人様の前で演奏できるレベルではない。メープルの木がヘッドにデザインされている(おそらくカナダ製の)貰い物のギター、今ではすっかり油絵具の匂いが染みついて所々アトリエと同じ色彩の汚れが目立つようになった。
ここ最近の練習成果として、このギターに張られている弦の質感が私の指と相性がぴったりなようで、なんとも心地よい癖になる感覚を抱く事に気づいた。適当な拍を刻みながら六弦を上下に揺さぶる振動、ネックに押さえつける指先の圧迫感さえも、身体のツボへマッサージをしてもらっている時と同じ刺激が脳内のニューロンに伝わっている気がする。
その感覚が演奏の上達に役立っているかと問われれば怪しいものだが。
描く時間を過ごす中で、描いても描いてもうまく決まらない悩みの時期が不定期にやってくる。そんな時は本の世界に潜り込んだり、まだかろうじて暖かみの残る時間に馴染みの桂川土手を散策したり、メープルのアコギを練習したりしている。絵から離れる時間があることで、もやもやが解消されてまた制作へのスイッチが入る。ささやかながらも、一休みしても身体が描く感覚を覚えている、そんな領域に片足だけでも踏み込めているのかな?とちょっとだけ図々しい自信を抱いたりもする。
翻ってギターの演奏はどうだろう?相方曰く、「ずっと練習してると大変だから休むのも大事やで。」と言っていたが、果たして今の私の演奏技術段階でそれが通用するとは言い難い。制作の締切に切羽詰まっている時や、描きが乗りに乗ってる時はギターの練習がそっちのけになってしまうことがよくある。(一年以上手元にギターがあるのに、上達具合が蝸牛のような理由の一つだと思う。)
演奏を怠った翌日は指先が石像のように凝固して思うままに動いてくれず、コード弾きの四苦八苦を繰り返す。身体に染み込ませる技術は、‘覚える事’と‘忘れる事’の終わりのないいバランスゲームのような気がする。
メープルのアコギに関して、「一休みの領域」はまだまだ先の話。
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