猫に小判、豚に真珠、馬の耳に念仏、兎に祭文——たとえ値打ちのあるものでも、その価値を理解していない者に与えても無駄であることの例えとして、どれも古くから使われている表現だ。そして相手やその場にいない第三者を見下すニュアンスが含まれていることが多い。
耳にする度に、動物に失礼じゃないのか?とも思うが、私自身、今までも会話の流れで口から滑るように無意識に出てきていた。
念仏・祭文はさておき、現在、小判は小銭や札束、仮想通貨にまで変容し、真珠は今も言わずもがなで、他の多種多様な宝石も宝飾・装飾品として世界に流通している。
これらが直接、私達人間の身体に何か恩恵を与えるわけではない。あくまで他者と円滑なやり取りを行うための手段であり、社会循環の中で生きていくための道具の一つだ。その道具の使い方を知らなければ、小銭はただの金属の小さな薄板で、札束は紙切れ同然、真珠はただただ光っているだけの丸い粒、ということになる。
では果たして、小判や真珠の価値を知らない動物達は本当に人間よりも劣っているのだろうか?
逆の視点で捉えるとどうだろう?人間社会にとって重要なものがあるように、猫社会、豚社会、各動物達のコミュニティにとって重要なもの、それも私達人間が理解も認識もできない何かが存在しているかもしれない。言語とは違った手段でお互いの意思疎通を図っているかもしれない。人間社会で例えれば、金品や有難い念仏にあたるような役割を担っているものがあるかもしれない。
暮らしの中で当たり前に動物達を下に表現する私達のように、彼らが皮肉めいた笑いを湛えながら人間を揶揄する光景が浮かんでくる。
『そんな事も分からないなんて‘人間に猫じゃらし’だなー。』
『あいつにはどうせ‘人間の前足に蹄’だよ。』
各自の動物社会でこんな情報が飛び交っていたら……。
一方的に「こうに違いない。」と思い込むとその時点で思考は終了するが、「~かもしれない。」を延々と繰り返していくと、思考と時間がワープして時の帯が一部切り取られたような感覚になる。暇つぶしにはちょうど良い時間遊びです。
動物から見た人間の世界は、どんなふうに映っているのか。もし彼らが「猫に小判」の意味を理解したら……。怒り心頭に猛抗議してくる構図が浮かんだ。
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